チアリーダー部・吹奏楽部ともに1991年4月に発足していますが、
部の成り立ちからの歴史を振り返っていただけますか?
野田先生:1991年にアメフト部の監督の富田先生が1年生の担任をされていて、クラスの生徒に「チアリーダーに入ってアメフト部の応援をしてくれないか」と呼びかけたそうです。「クリスマスボウルという全国大会の決勝が東京ドームであるから、チアリーダーに入ったら試合の応援で東京ドームに一緒に行けるし、そのあとディズニーランドにも連れていくぞ、だから入ろう」と言って。すると16人が「行きたい」と言って集まりました。
人が集まったのはいいのですが、富田先生はアメフト部の監督だからチアを教えることはできない。そこで音楽の非常勤講師をしていた私に声がかかりました。「音楽の先生だから、チアリーディングの発声くらい教えられるやろ」と言われて。私は「やります」と答えました。この学校に来て2年目、26歳の時でした。
福里先生:吹奏楽部もチアと一緒で、アメフト部の応援要員として呼ばれたのが始まりです。1991年4月に発足した当時は同好会でした。私は新卒で非常勤講師として着任したばかりで、米田先生と一緒に始めて、こちらも生徒は10人くらいでした。12月のクリスマスボウルの応援では、生徒に混ざって私もスーザフォンを吹いたんですよ。
野田先生:吹いていましたね、スーザフォン。私はそのとき大太鼓を叩いていました。チアも吹奏楽もアメフトの応援の仕方がわからないので、本番までの道のりが大変でした。まずチアリーディングを見たことがなく、アメフトのルールも知らないので、富田先生に「ついてこい」と言われてスタジアムに試合観戦に行きました。関関同立大の試合を毎週見に行って、富田先生が当時買われた30年前の立派なビデオカメラで、立命館大や甲南大のチアやサイドラインを全部撮って、帰ってきたら丸ごと真似て練習しました。
福里先生:吹奏楽用に楽譜も書いてくださいましたね。
野田先生:私は試合会場のスタンドで大学の吹奏楽部の演奏を全部聞いて、それを楽譜に起こして生徒に吹かせました。それでやっと吹奏楽部は練習することができたんです。音もダンスも両方とも真似からのスタートです。
チアと吹奏楽の応援を受けて、アメフト部は1991年のクリスマスボウル決勝で優勝しましたが、チアと吹奏楽もそこから30年間ずっと活動を継続して現在に至ります。
当時、大会出場などの目標はありましたか?
野田先生:元々はアメリカンフットボール部チアリーダーであって、チアリーダー部ではなかったので、発足1年目はあくまでもアメフトの応援がメインでした。翌年に「関西にもチアが増えてきたので、関西チアリーディング連盟を立ち上げてほしい」と富田先生と私に依頼があり、一度選手権大会を開催しようということで、1992年6月に千里中央体育館で大会を開いたのが関西大会の始まりです。その当時、高校は箕面自由学園しかチアリーダー部がなくて、社会人チームと大学のチームあわせて8チームくらいしか出ていなかったと思います。
チアリーダー部が発足した初期の頃に苦労したことは何ですか?
野田先生:初期の頃は私の指導方法も暗中模索でした。チアリーディング自体の認知度がとても低かったので、周りからの理解や協力は得られないし、生徒の意識もとても低い。学校の中でも全く認められず、練習場所もないという状況が最初は大変でした。
全国に通用するように本気で取り組み始めた転換点はありますか?
野田先生:早い段階でありましたよ。1992年の関西大会のリハーサルで生徒が骨折して、16人が15人になってしまうという危機がありました。今では考えられないことですが、他のチームが助けてくれてなんとか16人で出られたんです。それまで敬語も話せない、練習もまともにできない子どもたちだったのに、その試合は一生懸命本番をやり切りました。生徒たちが「せっかくここまでやってきたんだからやろう、先生やろう」と言ってやり遂げた姿を見て、私自身今までの人生で感動して泣いたことなんかなかったのに、その時はものすごく感動して泣きました。
「せっかくこんなに素晴らしいスポーツなのに、私が無知なばかりに本番直前に怪我をさせてしまったり、きちんとした指導ができていなかったりしたことが申し訳ない」とその時思いました。「だったらもう、言い訳せずにチアにどっぷりハマろう」と思って勉強し始めたのが転換点です。
ただ、知識があるわけでもないですし、練習場所もないので、そこから2年ほどは優勝などは全然できませんでした。その後1996年に、現中学校コーチの関川愛さんが1年生で入ってきた時に部員が多くなり、器用な生徒も増えてきたので、「これは日本一を目指せるのではないか」と思っていろんなことにチャレンジしたところ、12月のインターハイで勝ってしまったんですよ。次の年もさらに張り切って、誰もやったことのない大技に挑戦していると、実は「日本初」という技をたくさん出せて、全日本選抜で優勝しました。これは高校・大学・社会人の部門の垣根が全くない大会で、いきなり優勝できたんです。2位が日本体育大だったので驚きでした。
その日本初の大技は、例えばアメリカでやっているチームではすでに実演されていたのですか?
野田先生:そうです。昔はSNSなどがないのでアメリカのビデオを取り寄せて、本当に擦り切れるまで見ました。音楽もパソコンではなく、MDとCDの音源を家で徹夜して編集しました。演技構成に関しては、私は音楽を学んでいたので、音楽の起承転結や緩急を活かすことができました。私にチアの経験がないので「この技は無理」という先入観はなく「面白いからやろう」という考えでしたし、生徒もそこはノリでついてきてくれました。そうしていたら優勝した、というのだからビックリしますよね。
吹奏楽部が発足した初期の頃に苦労したことは何ですか?
福里先生:1991年の発足から3年目で部に昇格したのですが、とにかく楽器が不足していました。自腹で大太鼓を買って、小太鼓を買って、ピッコロを買って、給料が全部楽器になっていく。部員の数も多くなくて、最初は15人とか20人とか、多くても26人ほどで、それが10年くらい続きました。途中から当時の吉田校長先生(故人)が「これは楽器がないと無理だな」と分かってくださり少しずつ楽器の数が増えたのと、保護者からティンパニの寄付があって、これは助かりました。
そうしているうちに小編成部門ではありますが何とか吹奏楽コンクールに出ることになり、3年かけて関西大会出場までたどり着きました。コンクールも大編成部門になると課題曲と自由曲があり、演奏時間が12分間あるのですが、小編成部門は自由曲だけで7分までなんです。1997年からは大編成に変えて出場できるようになり、全国大会へいつか行こうと夢を見ながら続けていました。そんな中、同じ年にマーチングも始めました。
マーチングを始めるきっかけを教えてください。
福里先生:箕面市に関西吹奏楽連盟の理事長だった故・松平正守先生がおられて、その方の影響が大きいです。当時中学校の吹奏楽部では箕面市が一番強く、コンクールの全国大会にも出場していました。先生に「高校でも何か音楽で強い学校が欲しい、お前頑張れ」と言われました。
それから様々なイベントに呼んでもらっているうちに「マーチングもしないとあかんで、どんどん関わっていかないと」と言われまして、以前からマーチングには興味もありやってみたいと思っていたので「じゃあやってみます」と返事しました。最初はマーチングの衣装もレンタルでしたが、まず2年間やってみて、そこからは「継続は力なり」と思いながら、今もずっと続けています。
野田先生:私は池田市の呉服小学校の吹奏楽部出身で、6年生の時の校長先生が松平先生だったんです。隣の町内のおじいちゃんだったこともあって、もともと顔見知りでした。私がなみはや国体に参加した時の一番上の演出の先生が松平正守先生で「お前なにやっとんねん」と聞かれたので、実はチアリーディングをやっていますと答えて、そこからつながってチアも吹奏楽の世界に呼んでもらえるようになりました。
ゴールデンベアーズという名前は最初からついていたのですか?
野田先生:そうです。富田先生の構想で。アメリカの大学って全部同じチーム名じゃないですか。そういうのに憧れていらっしゃったので。
福里先生:基本は富田先生がいらっしゃって、アメフト部があって、ゴールデンベアーズという名前をのれん分けしていただいたチアリーダー部、吹奏楽部があります。当時富田先生への風当たりは強かったと思うのですが、「好きにやれ」という感じで見守ってくださいました。富田先生の背中を見ながら、10年間くらいは基盤を作るというか人間関係を作るという感じで続けてきました。チアリーダー部を率いる野田先生と共に、イベントがある度に松平先生が「お前らやれ」と呼んでくださったので一緒にやってきました。
野田先生:お正月に開催される宝塚大劇場のアマチュアトップコンサートは、通常吹奏楽のトップのチームしか出られないのですが、なぜかチアは毎年出ていたので、松平先生に「せっかくだしうちのブラスも出して」とお願いしたことで吹奏楽部も一緒に出れることになりました。
福里先生:その時の吹奏楽部はまだ成績を残せてないんですよ。でも「出て実績を作れ」とおっしゃっていただいて。
野田先生:だから本当に吹奏楽部とは共に歩んできたという感じです。
マーチングで関西大会に初めて出場したのはいつ頃ですか?
福里先生:2003年です。結果は銅賞だったのですが。コーチもまだいなくて、生徒たちと一緒に自分たちでコンテなどを作っている状況でした。2003年の関西大会出場以降、秦和夫先生が指導に来られるようになって、出場2年目には関西大会で金賞を獲り、そこから3回金賞が続くも「ダメ金(全国大会に進めない金賞)」でした。
そして転機の2011年。日本テレビの『笑ってコラえて!』というテレビ番組に、2010年にチアリーダー部が取り上げられて、翌年吹奏楽部が取り上げられました。「ダメ金が続いていた箕面自由学園、今年はどうなるか」という内容だったのですが、結果、その年は全国大会に出場できた上に、金賞まで獲ってしまったという快挙でした。
全国大会出場が決まってからはどうしたらいいのか分からず、野田先生に聞いたところ「初出場で初金というのは、クラブにとって一回しかないから狙ってみては?というより楽しんでくださいね」と言われて。「ああそうか、かっこいいな」と思ったんです。テレビにも密着されていて、最後笑って終われたら『笑ってコラえて!』にもつながりますし。野田先生のアドバイスもあって、この結果にたどり着いたという感じです。
2003年の関西大会初出場から2011年の全国大会初出場で金賞、
この辺りで大きく変わったことはありますか?の今後の課題は何でしょうか。
福里先生:御堂筋パレードや3000人の吹奏楽などの大きなイベントにも絡んでいくようになりました。松平先生からは、アマチュアトップコンサートの会場が西宮スタジアムから京セラドームに移るとのことで「昼・夜2公演に枠を広げようと思うけどどうや」と声がかかるなど、大観客の前で演奏する機会が増えていきました。そしてクラブもだんだんと全国シフトを敷いていくわけです。
部員の引退時期も初めは2年生の3月だったのを、3年生の5月にして、12月にして、卒業1か月前の2月まで延ばしたのですが、そうなるまでにはだいぶ時間がかかりました。2004年頃にそこまで一挙に持っていったわけですが、そこから3年生も含めいろんなイベントに出させてもらって、そのうちに成績を上げなさいと言われるようになって。松平先生には「私が生きている間に全国に行けよ」と言われていて、絶対にそこだけはという気持ちがあったのですが、やはりそこは難しかったです。
松平先生はイベントを通して人間関係も作ってくださる方で、いろんな場所でいろんな人を知っていって、吹奏楽をやりやすい環境が出来てきたと思います。そういう中で20年くらいやってきて、後半の10年くらいは結果も出せるようになりました。1991年発足時を0歳としたらちょうど年相応というか、20歳くらいで芽が出てこれからどんどんいこうかという感じでしょうか。チアの祝勝会などを見て、頑張らなければという気持ちはずっとあって、そういうものがすごく刺激になっていると思います。
チアリーダー部は2000年代に常勝チームになっていきますが、
その辺りから競技人口は増えてきましたか?
野田先生:2000年代に入って、まず競技人口は増えていると思います。昔の習い事が例えばバトンだったのが、全部チアリーディングに移行しています。創部31年で、最初の15年は初心者しかいなかったのですが、徐々に経験者が増えてきて半々になり、8割9割というのがこの7年くらい、この5年で本当に9割になったのかな。競技人口が増えてからは、いろんなことが変わってきたように思います。
大会で勝ち始めてからは、先生はどういうスタンスでチアに取り組んでこられましたか?
野田先生:私たちは「毎年勝つこと、毎年日本一を獲ること」を大前提でやっていて、では日本一を獲るためにはどうしたらよいのかという考え方でクラブ活動が行われています。
全国からチアリーダー部に生徒が集まるようになったのはいつ頃からですか?
野田先生:寮ができたのが7年くらい前なのでその頃です。それまで関東にはキッズチームがたくさんありましたが、関西には少数でした。梅花高校でしたら附属中学にチア部があるので経験者が入部してきますが、箕面自由学園の場合は未経験者ばかり。一応中等部はありましたが経験者は一人や二人というレベルで、中学の経験者が入ってきても即戦力にはならない状態でした。元陸上部や元バスケットボール部の子が、何の根拠もなく「日本一になるぞ!」と言って入部してきていましたね。
チアチアリーディングの場合、経験が全くない状態から3年間で仕上げていくのは
かなり難しいと思いますが、どのような指導方針をお持ちでしたか?
野田先生:今の子に通用するかと言われるとまた違うと思いますが、とにかく昔の子はチャレンジ精神と好奇心の塊なんですよね。当時はゴールデンベアーズの歴史も浅いし優勝実績もそんなになかったので「自分たちで日本一になりたい」という気持ちがある。だから何でもチャレンジするし、失敗しても失敗してもやり続けて、そうしていくうちに自分たちのスタイルが出来てくる。私もチアの経験がないので、教えることの出来る範囲は限られています。チームビルディングやメンタル面はいくらでも教えられるけれど、細かい技術までは教えられないので、自分たちで考えるしかないんです。自分たちで失敗して、その失敗を糧にして成功して、それを積み重ねていくのが箕面自由学園のチーム作りでした。
今思えばマニュアルがなかったことがむしろ良かったとも言えますし、大体みんな中学である程度のアナログなクラブ活動は経験しているので、序列があって、耐えなければいけないことが一杯あることを知っていて、だからお互い上手くコミュニケーションを取ることができる。まだそこまでスマホが浸透していなかったので、とにかくその日のうちに言いたいことは話してしまうし、それでも話し足りなかったら電話する、もしくは朝早く来て会う。何というかぶつかり合っていたかな。そんなコテコテのクラブ活動の中でいろんなものが育まれていくという時代でした。
チアリーダー部の生徒も吹奏楽部の生徒もノートを書いていますが、
この形は昔からですか?何か始めるきっかけはありましたか?
野田先生:チアノートは20年くらい前からでしょうか。きっかけは、生徒たちに自分の気持ちをちゃんと整理してほしいと思ったからです。私はあのノートを「チアの参考書だよ」と言っています。その日にあったこと、自分の気持ちや技術について書き出すことで、本当に困った時や悩んだ時にノートを見返せる。こうやって乗り越えたなということが分かると、3年間のクラブ活動にもプラスになるし、卒業してからも残りの人生80年を楽しく過ごせるのではないかなと思っています。継続して書くのはしんどいですけどね。
中には、自分に向き合いたくないから技術のことしか書かない生徒もいます。そこが書けないからいつまでたっても強くなれないんだよ、自分の気持ちも書いていいんだよ、と言ったら次の日から書くようになって、少し素直になりました。
福里先生:吹奏楽部のノートは、昔は生徒一人ひとりに返事を書いていましたが、時間的に無理ですね。自分の参考書になるから書きなさいと言っていますが、バンバン書いている生徒もいれば全然書いていない生徒もいる。誤字脱字も多くて、それが最高に面白いから、文章の指導に時間が費やされることもあります。
吹奏楽部は大所帯なので、コミュニケーションを円滑にするためにできるだけ生徒と話すようにしています。立ち話程度で、他愛もない話が一番いいです。親はどう?とか、喧嘩した?とかいろいろあります。ほとんど練習の話は聞かないですし、そこに行きつかないです。全体練習の時はいいですが、個別で技術の話をすると生徒もしんどいですから。
野田先生:子どもたちの顔を見れば、「この子今日様子がおかしいな」って分かりますしね。個別の時は「あなたのことを見ているよ」というサインを出すだけで、「先生はちゃんと見てくれているんだな」と思うので。
2010年代~今現在、チーム作りで気をつけていること、中心に考えておられることは何ですか?
野田先生:チーム作りについてはよく聞かれますが、その年の生徒のカラーを見て「今年はこういう方向性かな」とコーチと一緒にものすごく悩んで考えます。チアリーダー部には「日本一」という圧倒的なスローガンがありますが、本来は日本一を目指す過程が大事で、チアリーディングを通して人間力を高めて成長することが目的だと思います。チアさえやっていればいいのではなくて、見えない所をきちんとするから見える所が生きてくるし、それが卒業後に活かされる。技術的にはある程度の基礎力を持って入部してきますが、今の子に何が足りないかというと、主体性や思いやり、協調性、信頼関係などです。このチームビルディングを教えることが今すごく大切なことだと思います。
福里先生:協調と言われていましたが、これがなかなか生徒には難しい。まずは協力からでしょうか。義務教育の延長線上で、大事にする順番が自分の次に他人となっているので、他人の次に自分が来るように優先順位を入れ替える作業が必要だと思いますが、しかしこれがなかなか出来ませんね。
野田先生:出来ないですし、誰かのために頑張ろうという感覚が希薄ですね。今の時代、自分のために周りが動くという環境で育っているじゃないですか。小・中学校の先生も怒らないし、クラブのチームも怒らない。情報は全てスマホに入っている。何不自由なく高校に入学してくるので、指示をコーチや先生からもらって当然という感覚なんです。吹奏楽部もチアリーダー部も環境が出来上がっているので、「ここに入ったら日本一になれる」「ここに入ったら金賞を獲れる」と思っている。「入学がゴールじゃないよ」と最初に言うのですが、でもやっぱり毎年勝っているのを見ると、コーチや先生についていけばいい成績を残せるのではと思ってしまうんですね。
福里先生:それを崩すのが大変です。
野田先生:崩し方もその年によって違いますし。生徒も少し強く言われたら、すぐ心のシャッターを降ろしてしまうんですよ。
福里先生:とにかく心のシャッターが重たいので、それを何とかグワッとこじ開ける作業が一苦労です。
お客さんを目の前にした時、思い切りパフォーマンスをするのは難しいと思いますが、
何か秘策はありますか?
福里先生:お客さんの前で歌ったり、相手の目を見ることを覚えさせたりします。目を見るのが難しければ鼻を見ろと言いますが、羞恥心が先立つようです。表現するとはどういうことか、それを覚えるにはお客さんの近くに行って歌うしかなくて、先輩がやっているのを真似させる形で指導します。相手に対して構えてしまうのが一番良くないのですが、すぐ構えてしまうし自分のことばかりを気にする生徒が多いですね。
長い目で見れば、卒業後は世の中の役に立つ人間になりたいなど、人生の大きな柱があると思います。大会などの短いスパンで物事を見たり、勝つことを最終の目標にしたりするのは違うと思います。勝つことだけが目標だったら、チアリーダー部もずっと日本一を獲り続けてはいないと思います。子どもたちが何かアイデアを出したり、人のために動くようなことがあった時に初めて成果が出てくる、そう思っています。
野田先生:私は「チアリーダー部は社会の予備校です」と言い切っています。「うちのクラブよりしんどいことは絶対に世の中にない」というくらい、いろんなことが吹奏楽部もチアリーダー部も詰まっているじゃないですか。人間関係、規律、達成しなければならないノルマ、目標、それらを全部達成するためにはコミュニケーション能力が必要で、愛される人になることが大事です。日本一という目標は社会的な成功であって、人間的な成功者になるためには、今言ったことすべてをクラブ活動の中で育んでいかなければいけない。これは、卒業後の残りの人生をどうやって豊かに過ごすかという大きな枠で考えないと、潰れてしまいます。
「箕面自由学園で日本一を目指して死ぬほど頑張ったことが、大人になった時『あの時あんなに頑張れたのだから』とあなたの背中を押してくれるんだよ」と伝えたいです。あとは、この学園の中でたくさんの人が応援してくださったことは一生忘れないと思いますし、その分一生懸命生きていこうと生徒も思える。それをわかっている感じが、今年の箕面自由学園にはありましたね。
全クラブで励まし合う中で、チアリーダー部にも本当に無理だと思う瞬間が途中何回もありました。そんな時吹奏楽部の生徒に何回も見に来てもらって、目の前で演技をして、そうしたら喜んでくれるので自分たちも自信がつく。良かったって言ってもらえたら、嬉しくなって気持ちがどこまでも上がっていくんです。
福里先生:吹奏楽部は全国大会の前日に隊列を抜いて、人を抜いて誰にも頼ることができない状況になるような練習をしました。案の定出来ていなくて不安になっている時にチアリーダー部からの応援動画を流したんです。そうしたら「これで諦めたらだめだ」と思って急に頑張り出しましたね。
野田先生:自分のためだけに頑張るのであれば諦めてしまうんです。誰かのために頑張ろうと思った瞬間に、何か違う力が加わる。それがたぶん吹奏楽部もチアリーダー部もお互いに感じ合えているし、もちろん学校全体でもすごく応援してくださいますし。
福里先生:ありがたいですね。
これまで切磋琢磨してきたお二人が、お互いにリスペクトしている所はどこですか?
野田先生:福里先生は本当にすごい人です。日本一腰が低くて、本当に謙虚だと思います。どんなに忙しい時でも、組織を守るため、箕面自由学園の吹奏楽を守るため、いろいろな活動を陰でなさっています。必要とされたら絶対にそこに行くし、その仕事をやり切る。やり切る姿を見たら、この人の学校だったら応援しようと思えるじゃないですか。だから、ポスト松平先生、ポスト丸谷先生のポジションに今いると私は思っています。お互い部活動を初めてから30年以上経っていますが、未だに情熱が消えないのもすごいことです。
福里先生:野田先生の情熱もすごいですから。初めて出会った時、太陽や向日葵みたいな印象でした。ちゃんとハッキリものを言う所が私はすごく羨ましいですし、まず自分のアイデアを言ってから「あなたはどう思う?」と聞いてくれるので、こちらも自分の意見を言いやすいんですよね。「私はこうしたい」というビジョンがハッキリしているので、すごく分かりやすいです。楽しいことをやろうとポジティブに活動されているところも良いと思います。
野田先生:組織は一番前に立つ人間が、常に元気で笑顔でないと成り立たないんです。偉い先生と接する機会がありますが、上になればなるほど腰が低いですよね。吹奏楽の世界では、松平先生も丸谷先生も私たちにとても優しく接してくださいました。
結果を残し続けている部活動を率いているお二人だからこそ、
わかりあう部分が多いのではないでしょうか?
野田先生:そうですね。吹奏楽部もチアリーダー部もある程度てっぺんというものがイメージできているので、それが良い結果につながっているとは思います。でもその分負けられないという思いは強いです。淀川工科高校の丸谷先生が「生きるか死ぬか」っていつもおっしゃっていましたが、本当にそういう思いで取り組んでいます。
福里先生:本当にね、負けたらみんなに謝るしかないですから。いつも生徒には謝っていますよ、申し訳ないって。
野田先生:負けてもみんなが「謝れ」なんて思っていないのはわかっています。けれど、どれだけ応援してもらっているかというのが身に染みていて、期待されていることも分かっているから、どうしても「ありがとうございました」の前に「すみませんでした」と言ってしまう。両クラブともにお互いの悩みもよく分かりますし、上を目指すのに良い刺激が近くにいるのがありがたいです。お互いどちらかが賞を獲ったら普通は妬んだりするかもしれませんが、そこは全くないです。刺激や励みになるのは生徒同士も同じですね。良い土壌ができていると思います。
箕面自由学園100周年に向けて、今後クラブを通してやってみたい目標を教えてください。
野田先生:吹奏楽部と100周年のコンサートや公演を一緒に出来たらいいなと思っています。
福里先生:東京・名古屋・大阪・福岡の4大都市や親交のある都市をツアーすることが出来たらいいですよね。
野田先生:同じ高校にハイレベルなクラブが二つあるのはとても珍しいですし、両部ともにファンがいますよね。お互いの主張も強くないし、お互いが歩み寄れる位置にいるのでコラボレーションが出来るのだと思います。ぜひ実現させたいですね。
福里先生:あと、世界にも行きたいと思います。
野田先生:チアリーダー部も、アメリカ遠征にまた行きたいと思っています。
福里先生:マーチングの世界大会があったら出場してみたいですね。私たちの見ている景色のレベルをもう少し上げたいという気持ちがありますし、そんなことができたら楽しいだろうなと思います。
野田先生:一週間くらい両方お休みいただいて、アメリカでツアーをしましょう。
福里先生:アメリカツアーいいですね。
野田先生:ブラスバンドのマーチングもチアリーディングもアメリカが本場ですから、本場の本物を見るべきだと思います。若いうちに本場を知るのは大きいですよ。以前はジャパンカップに優勝したら、1月にフロリダのディズニーワールドにエキシビションで招待されていました。箕面自由学園の演技を見て、アメリカの観客が初めて「MJG!MJG!」とコールしてくれたのが27年くらい前で、そこから普通にMJGと呼んでくれるようになって。チアリーディングの地位がこんなに高いんだと初めて知りました。
その時アメリカに行った生徒の中に、英語が通じないことが悔しいと言って帰ってきてから勉強して関西外大に入学した子がいます。その後外国の方と結婚しましたよ。クラブを通して本物の世界を見ることで、視野が広くなったらいいなと思います。
大阪音楽大学音楽学部声楽学科卒。
声楽を山村弘氏に師事。
在学中は数々のオペラの副指揮者として研鑚を積む。
1991年に箕面自由学園高等学校教諭並びに
吹奏楽部顧問に就任。
大阪府吹奏楽連盟常任理事。
同志社女子大学学芸学部音楽学科卒業後、
クラリネット奏者として活動。
1991年に音楽の非常勤講師として
箕面自由学園高等学校に着任。
翌年チアリーダー部を創設に際し、コーチに就任。
現在はチアリーダー部 総監督
