後藤副校長の歴代の教え子である島守さん、大藤さん、桑原さんをお招きして、
当時の学園のことや、後藤先生とのエピソードをお伺いしたいと思います。
まず皆さんが在学中どのように学園で過ごされていたかをお聞かせください。
島守:私は1976年に箕面自由学園高等学校に入学し、クラブはラグビー部に入っていました。実家は西宮なのですが、クラブの後に家に帰るのも疲れるし、寮生活に憧れていたこともあり寮に入りましたが、実は寮の方がもっとしんどかったという経験をしました。倉智記念寮がまだ寮として使われていた頃のことです。
20年ぐらい前にラグビー部は廃部になったと聞きました。OB会で先輩方と会うのですが、廃部になったことは非常に残念だと話しています。私たちが入学した時はアメリカンフットボール部ができたばかりで、チアリーダー部もありませんでした。当時のラグビー部は強い勢力を持っていましたが、時代の流れでなくなってしまいました、仕方のないことです。
大藤:私は1981年に中学校、1984年に高等学校へ入学しました。高校の部活はアメリカンフットボール部でしたが、当時は現在みたいに強くなく、弱かった時代でした。部員も少ないですし、富田先生も強烈に怖かったですし、私は3年の時にキャプテンをやっていたのですが、非常に厳しく指導していただきました。
桑原:私は2001年に高校の特進コースに入学しました。特進コースが創立されて4年目ぐらいでした。特進コースは毎日7時間目まで授業があって、週に1回は9時間目まで授業がありました。クラブ活動を禁止されていたわけではありませんが、入っても活動時間が取れないということで結局勉強部みたいな感じでやっていました。でも意外とその環境が嫌ではなく結構楽しかったですし、特進クラスは3年間ほぼ2クラスの中でメンバーチェンジがないので、それもあって楽しく充実した学校生活を過ごしました。
皆さんから見て箕面自由学園はどんなイメージの学校でしたか。
島守:実は父親と叔父が関西学院出身で、中等部から矢内正一先生に教わったそうなのですが、私が入学する時にその矢内先生が箕面自由学園の学園長に就任されていました。「矢内先生は立派な教育者で私たちはとても尊敬している。お前も先生に教わって来い」と強くすすめられたのが入学のきっかけです。
実際に入って感じたのは、本当に自由学園という名前の通りのイメージだということ。この学校に入ったことは、今でも自分の財産だと思っています。自由な校風ではありますが何をしてもいいという意味の自由とは違う。もちろん怒られることもありましたが、無謀なやんちゃをする生徒はいなかったですね。みんなすごく温かい生徒ばかりでしたし、先生ともフラットな関係でいられる、そんなイメージですね。生徒はブレザーにネクタイというまるで英国のパブリックスクールのような雰囲気があり、自由な空気に満ちていました。それは学園長の矢内先生の影響も大きかった気がします。
後藤:島守さんがおっしゃったような雰囲気はあったと思いますね。矢内先生は関西学院の中等部で45年くらい務められたのち西宮市の教育委員長になられ、兵庫県教育界の重鎮として名高い方でした。当時の倉智理事長は、イギリスのグラマースクールのような、寮を兼ね備えた学校をイメージして倉智記念寮を建てたとのことですが、これは箕面自由学園に来ることを承諾してくださった矢内先生へのプレゼントみたいなものだったと聞いています。
島守:同級生が集まった時に「高校に通い続けられたのは矢内先生がおられたから」だとよく言います。寮生の中には過去やんちゃをしてきた20歳の人もいたのですが、矢内先生はもう徹底的に対面で話をしたみたいで、その人たちは年下の私たちにとても優しく接してくれました。
矢内先生は生徒全員に年賀状や誕生日祝いの葉書をくださるんですよ、必ず手書きで一筆入れて。普通できないですよね。教育というのは、そういう一つ一つのことがいろいろなところに伝播していくというのを今の歳になってすごく感じますね。やり続けるからこそ人はそこから何かを感じるんだと。今でもその葉書はみんな持っていますし、これは宝物ですよね。
大藤:私は中学生の時に高校の文化祭を見に行ったのですが、そこで先輩方が本当に楽しそうにされていたのが印象的でした。学校もその名の通り自由で楽しかったですね。もちろん全てが自由なわけではないのですが、先生もフレンドリーに接してくださるし、出来の良くなかった生徒にも優しい学校でした。
後藤:大藤さんは高3の時にお笑いのオーディションを受けているんですよ。同じクラスの子と漫才コンビを組んで。
大藤:よく覚えていらっしゃいますね。心斎橋2丁目劇場に行きました。卒業してから俳優を目指して上京したこともあります。
桑原:私は島守さんのおっしゃったことが、私の代まで続いているなと思いながら伺っていました。当時、先生が生徒を温かく見守ってくれているというのをすごく感じていて、先生たちを悲しませるようなことはちょっとできないという雰囲気はありました。先生からは「自由というのは自分を律することからはじまるんだよ」とよく言われていました。入学時は何か楽しいことができる学校みたいなイメージで入ってくると思うのですが、卒業する時には、本当の意味で自由に生きるってどういうことなのかを考えられるようになっていたように思います。
私は卒業して関西学院大学に入学しましたが「あ、矢内先生のところの学生さん」と言われました。先生が学生を見守りながら育てていくというノーブルな校風が箕面自由学園と似ているなと感じました。
島守:日本経済新聞に『私の履歴書』というコラムがあって、医師の日野原重明先生の記事が出ていたんですよ。そこに「一番心に残っているのは関西学院中等部のときに矢内正一先生に教えてもらったことです」と書いてあって驚きました。オリックスの宮内さんも矢内先生から薫陶を受けていると聞きますし、それだけすごい人なのだと改めて思いましたね。
島守:自由なのはとても良かったけれど、ただひとつだけ心残りなことがあります。それは「勉強しなさい」とまったく言われなかったことです。進学校に行っている友人に会うとすごく勉強していて、それを見ていると焦ってくるんですよ。学校に行っても先生は勉強しろとは言わないし、今みたいな特進クラスもなかったので、子供心に不安を感じていました。結局自分に甘えてしまいましたが、今当時に戻れるなら、箕面自由学園でしっかり勉強して上の大学を目指したいとは思いますね。
後藤:矢内先生ですら勉強しなさいとは言わなかったですから。そういう雰囲気だったというか。私も教師1年目の時「もっと勉強させないといけないのでは」と思っていました。
桑原:私の時の特進クラスでは、逆に勉強しなさいとしか言われませんでした。まず入学したら一人ひとり呼ばれて担任の先生と面談をするのですが、中学時代の出席簿などのデータを先生が持っておられて「休みが多いね、このままの考え方でいたら受験はやっていけないよ」と率直に言われる。そこから「あ、私、受験するんだ」という実感を持ち始めて、だんだん覚悟を決めました。
島守:私たちの頃は一切なかったです。
大藤:もう私たちの知っている同じ学校と思えない。
桑原:特進クラスは棟も他のクラスと別なんですよ。
後藤:特進クラスができたのが、桑原さんが入学してくる5年ぐらい前ですね。吉田先生が中心となって始められて、ようやく「特進クラスはこういう方向に進んでいく」というのがある程度見えてきた頃ですね。
桑原:私は公立高校との併願で箕面自由学園を受験しましたが、多分、公立高校にそのまま行っていたら、関学に入ることはできなかったと思います。塾も予備校も何も行かずに、学校での勉強を3年間続けただけで同志社大学と関西学院大学に合格できたので、結果良かったと思っています。
思い出に残っている学校行事はありますか。
思い出に残っている学校行事はありますか。
島守:今でもあるのか分からないですけど、
若狭の方での夏期学校です。
桑原:2時間の遠泳ですね。
大藤:遠泳は特進クラスでも行くのですか。
桑原:はい。
後藤:夏期学校は遠泳がメインでしたね。
3キロ半ぐらいの距離があったのかな。
大藤:私たちも当然行きましたし、高校2年と3年の運動部は補助員としての役割もありました。一度、泳げない生徒の補助員として参加しましたが、私たちはビート板を持ってその生徒の横を泳ぐわけです。先生から盛り上げる歌を考えておくよう言われて、当日はビート板を持って泳ぎながら宇宙戦艦ヤマトをずっと歌っていました。
桑原:エンヤコーラという掛け声でリードしてくださる方がおられましたが、運動部の先輩だとは知りませんでした。
島守:あとは、六甲山の耐寒登山も思い出に残っています。私たちラグビー部はトレーニングを兼ねて、先生と一緒に下見に行くんですよ。上で温かいカップヌードルなんかを食べるために、やかんや鍋を背負って走るんです、カランカランと音を鳴らしながら。子どもの頃のそういう経験はすごく大事だと思うので、今思えばそれも私立ならではのいいところかなと思いますね。
後藤:六甲山の下見は本番の1週間前ぐらいでしたか、雪の状態を確認する意味もあって、ラグビー部にその役目をお願いしていたんですね。
あと、夏は槍ヶ岳にも登りました。全員参加の夏期学校と違って、槍ヶ岳は行きたいと手を挙げた生徒たちが、1台のバスに乗れる30人ぐらい集まれば開催という行事でした。5日間の夏期学校から帰ってきて一日経つか経たないかで槍ヶ岳に出発というハードスケジュールでした。海行って次は山、みたいな。引率を両方兼ねる先生は大変だったと思いますよ、10日間ほとんど家に帰りませんからね。
大藤:私たちの頃は、学校行事ではありませんがクラス合宿みたいなイベントがありました。学校にある学習寮にみんなで泊まるのですが、それは楽しかったですね。学習寮には2段ベッドがあって、お風呂があって、食事も作れましたから宿泊するには十分でした。
島守:学習寮に泊まるといっても勉強メインというより親睦を深めるという合宿ですよね。すごく楽しそう。
桑原:私の時は年2回勉強合宿があって、夏は信州の高原に行きました。基本的にはずっと勉強をしているのですが、気分転換のために2時間ぐらいレクリエーションの時間があって、近隣の温泉巡りをしたりみんなで釣りをしたりして、そういうのは楽しかったです。
あと、後藤先生が学校で年越し自習をやってくださいました。12月31日の夜にみんなで集まって、12時10分まで勉強して一緒に年を越すというのが目的です。後藤先生がカレーと年越しそばを作ってくださって。
後藤:私の主催というよりは、桑原さんが言い出したんですけどね。予備校のチラシを持ってきて「先生、予備校でこんなことしてるんですけど、うちでもできませんか」って。夜中の自習なんて、それでは家に帰れないじゃないかと言ったら「先生、その日は電車動いてます!」と返されて。31日は初詣に行く乗客のために夜通し電車が動いていたんです。
桑原:家庭科室で先生が作ってくださったご飯をみんなで食べました。クラスの半分くらいは参加していましたよね。
後藤:職員会議に通すのが大変でしたよ。
桑原:あの時はありがとうございました。宿泊ではなかったですがすごくいい思い出です。
後藤先生との思い出についてお聞かせください。
島守:後藤先生とはもう長いお付き合いになります。大藤さんや桑原さんから見ると後藤「先生」という感じだと思うのですが、私にとっては「兄貴」なんですよ。当時からフランクに接していただいて、こちらも先生と生徒の垣根を越えたお付き合いをさせていただきました。長く教師を続けられるなかで、教頭になり副校長になり責任のある立場にあるのは承知しているのですが、やっぱり私にとっては兄貴的存在なんですよね。こういう関係ってほかの学校ではあまりないのではないですか。後藤先生とは青春時代を一緒に過ごした絆というか、そういうものをすごく感じます。
大藤:私は2年3年と後藤先生に担任をしていただき、本当にお世話になりました。あまり勉強が得意ではなかった私が卒業できたのは、後藤先生のおかげだと思っています。あと個人的な話になりますが、仲人もしていただきました。
後藤:奥さんも箕面自由学園の生徒で同い年でしたよね。
大藤:はい。私の周りには結構同級生同士で結婚した人が多いです。あと「後藤会」という後藤先生を囲む会があって、島守さんや私を含むつながりの深い生徒が参加しています。後藤先生を慕う生徒が多いからこそ、そういう会がつくれたんだと思います。
桑原:私が後藤先生に担当していただいたのは3年生だけだったのですが、たった1年間とは思えないぐらい思い出がいっぱいあります。先生はちょうど私たちのお父さんと同じくらいの年齢だったので、クラスの生徒の中には「後藤パパ」と呼んで先生に怒られた子もいました。そういういたずらっ子も含めて、先生は父性でクラスを包んでくださっていました。受験の年でしたが、カリカリせずにリラックスできたのも先生が上手にクラスの雰囲気作りをしてくださったからだと思います。その年は学校行事も全部、私たちのクラスが1位を総なめしたんです。みんな後藤先生のために頑張ろうと思いましたし、頑張ったら結果が出るんだと実感できてすごく楽しかったです。
箕面自由学園で学んだことが、その後の人生で役に立ったと思うことはありますか。
島守:一番役に立ったことは、コミュニケーション能力が身についたことですね。高校2年生で後藤先生と出会って、何も分からず先生の新婚のご自宅にもお邪魔したりして、先生と生徒の関係ではあるけれども一人の人間として向き合ってくださった。あれから何十年も経ちますが、先生のスタンスはあの頃と全く変わっていないし、だからお付き合いが続いている。後藤先生のことは箕面自由学園の一つのシンボルみたいに思っています。ゴルフコンペでも先生はものすごくみんなに慕われているなというのを肌で感じましたし、そういうコミュニケーション能力を後藤先生から学んだように思います。
また社会に出ればいろんな人との出会いがありますが、オープンにどんどん自分から話しかける力、そして話を聞く力を持っているかどうかが大事になります。課外授業や行事を含めた箕面自由学園での多くの経験は、社会に出た後、たくさんの人と関わっていく上で役に立っていますし、私がこの学校から得た一番大きな財産だと思っています。
大藤:私は箕面自由学園で多くの仲間を得ました。後藤会のように今でも関係が続いている友人がたくさんいますし、仕事の取引などでつながりがある方も何人もいます。卒業してからも交流がある仲間がいるということは本当にありがたく、素晴らしい財産だと思いますね。
桑原:私は卒業後に役に立ったと思うことが二つあります。
一つ目は、今の職場である博物館に勤めることになった、その興味のベースを箕面自由学園の授業で作っていただいたということです。例えば日本史の吉野先生は、授業中に質問して答えが正解なら教壇から飴を投げてくれるんです。それが楽しくてみんな予習してきて授業では競うように手を挙げました。また古典の濱田先生は、受験対策としての答えだけでなくその背景にある昔の人の人間臭さや暮らしぶりまで教えてくださったりして、そこで興味を持ったことが今につながりました。先生方の授業は本当に面白かったです。
二つ目は人格形成に関わるところなのですが、自由であるために自分は何をすべきなのかを考える、今でいう「バックキャスト」の考え方を先生方に教えていただいたように思っています。ゴールに何を描くのか、それに至るには何をしたらいいのかという考え方は、社会に出た時すごく活きますし、コミュニケーション能力にも関わってくるのかなと思います。今所属している場所で、自分が必要とされているという実感を持てるのは、人との接し方や考え方のベースを箕面自由学園で育ててもらったおかげだと思っています。
時代とともに箕面自由学園も変化してきたと思いますが、
後藤先生から見てこの部分は変わらずに学園の根底に流れていると感じるところはありますか。
後藤:生徒も先生も気質みたいなところは昔から変わっていないように思いますね。昔も今も人懐っこい生徒が多いですし、先生方は生徒に寄り添うタイプの先生が多いです。先生が教育方針を決めてそれに右へならえで生徒がついていく、そんな雰囲気は昔からあまりないように感じます。
桑原:私も当時を振り返ると、先生方にすごく自分の意見を言いやすかったです。学園の外に出てみると、上の立場の人に自分の意見が言いづらいことが多いのですが、箕面自由学園ではそういうハードルがなかったように思います。
島守:それは私も同感です。この学校は自分の意見が言いやすく、先生にも気軽に相談できるという良さがあったと思います。
桑原:公立高校と違って先生の異動が少ないというのも、箕面自由学園の一つの特徴かもしれないですね。島守さん・大藤さんと世代は違いますが、お話に出てくる先生方は私も知っている先生ばかりなので聞いているとすごく楽しいです。
100周年に向けて、箕面自由学園に期待することはありますか。
島守:昔の箕面自由学園を知っているOBは、今はあまりにも進学校になりすぎていて学園の良さがなくなっていくのではと危惧しているんですよ。ただ桑原さんの話を聞いていると、勉強はしっかりやるけれど、根本の自由の部分を見失っていないし源流がきちんと続いている。勉強もしながらスポーツもやって、ベースには後藤先生たちがずっとつないできた生徒に寄り添う部分がある、バランスの取れた形になっていると思います。単に詰め込むだけの教育ではなく、先生が子どもときちんと向き合って、大学でも社会でも活躍できる「人間力のある人材」を輩出できる高校であってほしいですね。
今は人口も減って、公立高校もどんどんなくなっているような状況です。母校がなくなるのは寂しいことですし、私も同窓会の役員として、どのように応援できるかを考えています。
大藤:私は少し前に後藤先生から、箕面自由学園は大阪の高校の中で受験数がナンバーワンになったという話を聞いて驚きました。特進コースにも新設コースができたり、クラブ活動もアメフト部やチアリーダー部、あと吹奏楽部のマーチングも有名ですよね。テレビやマスコミに学園が取り上げられるなんて我々の世代には考えられなかったことです。勉強もスポーツもとても頑張っているように思います。そういう環境のなかで、今後も楽しく人間形成を図っていってもらえたらと思っています。
桑原:箕面自由学園は私の母校として大事だというのもありますが、地域にとってもすごく大事な学校です。自分の将来にいろいろな夢を持っている中学生を受け入れる素地が、学園にはあると思います。私が入学した時には特進コースは一つでしたが今はもっと細分化されていますし、クラブ選抜コースもあるとのことで、中学生にとってはいろんな選択肢があってより選びやすくなっているのではないでしょうか。多様な個性を持つ生徒に対応できる環境作りが、どんどん進められていると感じます。卒業生として今後も生徒の夢が叶う学園であり続けてほしいと思います。
後藤先生は箕面自由学園で47年間教えておられますが、学園の変遷をどうご覧になりますか。
後藤:初めは非常勤として赴任し、2年生のクラスを教えていたのですが、その時の学年主任が現在の田中学園長の前に高校の校長を務められた吉田先生でした。吉田先生とはそこからのつながりで、吉田先生が来られたのが1975年で私が1977年。関西学院大学出身という共通点もありました。
高校は公立の田舎の進学校だったのですが、クラスメイトの仲が悪いわけではないけれど、お互いをライバル視しているような高校生活でした。だから箕面自由学園に来たときには驚きました。「なんでこんなに楽しそうなん、嘘やろ」って。私の知っている高校生活とは180度違っていましたから。
吉田先生とは「もう少し勉強させないといけませんね」と話してはいましたが、それでもみんなが仲良く楽しそうにしている雰囲気はとてもいいなと思いました。中にはカバンを持ってこない生徒がいたりして驚きましたけどね。ただ僕はこの時の26回生に出会っていなかったら、こんなにも長い間箕面自由学園にはいなかったのではないかと思います。いろいろな意味で生徒たちに助けてもらいました。
島守:後藤先生が箕面自由学園に来られて、あと数年で50年になるというのを先ほど伺いました。一つの学校に約半世紀在籍する、これはすごいことですよ。先生と何年か前にお会いした時に「もうそろそろリタイアの年を考えようと思っている」と言われたので、僕はそれを聞いて「そんなのだめですよ、僕たちの時代の学園の良さを残しながら、進学校としての学園を育てていってください。先生にやってもらわないと困りますよ」と言ったんです。すると「長く同じ学校にいたら自分はその色に染まってしまっているのではないか、それがすごく怖い。もっといろんな考え方を勉強しなければ」とおっしゃったので、やっぱり先生は素晴らしいなと思いましたし、絶対に学園に残ってほしいと思いました。リスキリング、いわゆる学び直しについても言及されていて、やはり教育に携わっている人は、自分のことは置いておいても次のステップを考える、そういう精神を常に持って前に進むのだなと感じました。
後藤:少し田中学園長のお話をさせていただきますが、田中学園長もリスキリングのことはおっしゃられますね。田中学園長は校長としては9年目になりますが、9年間でこれだけ学校を変えられるのかと驚かされます。1年1年違う学校になっていると言ったら大げさかもしれませんが、進学実績的にも本当に変わりました。今のSSコースの生徒には、偏差値が70以上ある1年生が20人くらいいます。
最初に特進コースを創設する時も、内部ではとても大変だったものです。新しいことを始める時には反対もされますし、みんなが大変な思いをしないといけない。田中学園長が来られた時は生徒が600人くらい増えて、先生不足になり全国から多くの先生に来てもらって、そのなかで学校も大きく変わっていきました。田中学園長の手腕を見ていると見事だなと思いますね。そういう変化を学校の内側から見ることができたという意味では、長い間勤めさせていただいて本当にありがたかったと思います。
島守:こういうお話を聞いたときいつも思います。長く勤めて古参になると、新しいものは受け入れにくくなるものでしょう。でも後藤先生は柔軟に受け入れて「田中学園長はこういうところがすごいんだよ」と私に話してくれるんです。組織において、ナンバー1はもちろん大事ですが、ナンバー2というのも非常に重要な役割だと思います。後藤先生の人柄や柔軟なマインドというのはこの学校には欠かせないと私は声を大にして言いたいです。
進学校として変化をしていきながらも、昔からの和気あいあいとした雰囲気も残っている。
普通の進学校にはない、お互いの個性を尊重できる校風が当校の強みかもしれませんね。
島守:そういう意味では今学校に通っている生徒たちも我々卒業生も、先生方に感謝しなければなりません。今も学校が存続しているのは先生方の努力でしかないわけですから。人口減少の激しいこの国で、こうやって今も学校が残っている。私は100周年に向けてまずは今まで出会った先生方に感謝の言葉を述べたいですね。そしてこれからの箕面自由学園にも、大きな期待を寄せています。
小学校・中学校・高等学校副校長
後藤 彰俊
三重県立四日市高校、関西学院大学文学部英文科を卒業。
1977年から箕面自由学園に勤務し、現在に至る。
島守 宏明(高等学校26回生)
近畿大学を卒業後、繊維関係の商社を経て、
人材紹介・人材派遣事業を行う
「株式会社ラシク」を経営、現在に至る。
大藤 登(高等学校34回生)
箕面自由学園には中学から在籍。
高校ではアメリカンフットボールのキャプテンを務める。
大学へは進学せず、卒業後は役者の道へ。
その後、家業の「大藤釣り具」に奉職し、
現在は専務取締役。
桑原 有寿子(高等学校51回生)
関西学院大学文学部から同大学院を卒業。
平等院の学芸員などを経て、
現在は九州博物館で学芸員として勤務。
専門は染織史。